1.15 | 2.13 | 「坂下門外の変」老中安藤信正が襲われ背中に傷を受けたため失脚。 |
1.19 | 2.17 | 近藤、沖田、山南ら小野路の橋本家を訪問する |
春 | | 長州藩、「航海遠略策」の長井雅樂批判派の動きが活発になる。その先鋒は久坂玄瑞、桂小五郎、高杉晋作ら。「破約攘夷」 |
2.26 | 3.26 | 歳三、小島家で出稽古を行い、一泊する |
2.27 | 3.27 | 歳三、病が癒えて江戸に行く前に、小島家を出立、覚庵を訪ねる |
3.1 | 3.30 | 歳三、覚庵を訪ね、一泊 |
3.25 | 4.23 | 歳三、覚庵を訪ねる |
4月 | | 薩摩藩「国父」島津久光上洛。薩摩藩は公武合体論。 |
4.21 | 5.18 | 勇と共に橋本家で出稽古を行い、1泊する。翌日橋本家を出立 |
4.23 | 5.21 | 午後十時ごろ、伏見薩摩藩御用の船宿寺田屋において、尊攘激派の倒幕挙兵活動に対して藩主島津久光は力づくでこれを排除。「寺田屋事件」これによって公武合体派として朝廷から注目される存在となる。 |
5.9 | 6.6 | 橋本家へ出稽古に赴く |
6.5 | 7.1 | 江戸城にて国事周旋の大原重徳(朝廷)、一橋慶喜、松平春獄の登用を家茂に注文。これは島津久光の意見。 |
7月 | | 長州藩、「航海遠略策」から「破約攘夷」(条約を破棄して攘夷を実行する)に藩論を転換。以後長州は三条実美(さねとみ)らと深く結びついていく |
7月 | | 「文久の改革」公武合体の動きが幕府主権から薩摩藩などの雄藩連合へと変わっていく |
7.1 | 7.27 | 勇と共に橋本家で出稽古を行い、1泊する。翌日橋本家を出立 |
7月 | | 勇、講武所教授の採用が有力視されるも、2~3カ月後、不採用となる |
7.8月頃 | | 幕府、「将軍後見職」「政事総裁職」「京都守護職」を新設。それぞれ一橋慶喜、福井藩前藩主松平春獄、松平容保が任命される。 |
| | この年、勇の長女瓊子生まれる |
8.21 | 9.14 | 神奈川の宿場に近い生麦村で「生麦事件」おこる。島津久光が国事周旋の成果を孝明帝に報じるため江戸から京を目指した大名行列を横切ったイギリス人を切った事件。
これは幕末に多く起きた外国人殺傷事件のひとつとして扱われる場合が多いが薩摩藩が幕府を窮地に追い込むための計画的な政治的事件であったともいわれている。
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12月 | | 尊攘派の三条実美らが国事御用掛に任命される。これにより朝廷は急進派によって動かされる事になる |
12.8 | 1.27 | 清河八郎提唱による浪士募集策の実行を議決、松平主税助に取り扱いの辞令が下りる |
12.9 | 1.28 | 容保候、京都に向け江戸を出発 |
12.13 | 2.1 | 勇、覚庵を訪ね、一泊 |
12.24 | 2.12 | 「京都守護職」松平容保入洛。黒谷金戒光明寺を本陣とする。 |